2008年5月28日水曜日

ウスリースク便り(61)

 O ロシアの日本語学校


 光太夫、庄蔵、新蔵など日本人6名がイルクーツクに入ったのは寛政元年(1789年)のことであった。まもなく、トラベズコフタターリノフと名のる二人のロシア人が一行を訪れる。

 二人は『じつは、わたしたちは、あなたがたと同じ漂流民の子である。』と日本語で挨拶をする。父親は南部藩の船乗りで、久太郎三之助という名でよばれていたとのこと。

 二人の父は、佐井港を出てカムチャッカに漂流し、生き残ってロシアに帰化し、明和五年(1768年)イルクーツクに日本語学校ができると、そこの日本語教師となった。

二人は日本のことばを父親に教えてもらうともに、イルクーツクにあった日本語学校へ通って、日本語を習った。そこは日本語の通訳を養成するところで、以前は、子どもや大人が十四・五人も通っていた。

新蔵は三人の子をもうけ、官位も九等官に進み、日本についての本をあらわし、五十二歳でなくなったそうです。

ロシアが、東洋語や航海術の学校をおいたのは、東アジアへ乗り出す準備にとりかかっていたことを意味しています。

 庄蔵と新蔵がイルクーツクの日本語学校の教師になる、九十年ほど前に、カムチャッカに漂流し、ただ一人生き残った大阪の伝兵衛は、ロシアの都ぺテルスブルグへ入り、ピョートル大帝の勅命を受けて、日本語学校を開き、日本語教師となっていた。

 光太夫一行が、イルクーツクに入る六十年ほど前に、薩摩の港を出て大阪へ向かう船がカムチャッカに流れ着きソウザゴン以外の十五名はことごとく殺されてしまった。ロシア皇帝にぺテルスブルグへ呼び寄せられた二人は神学校で学び、やがて日本語教師になった。ゴンザは日本語に関する数冊の本をあらわすが、その中に世界で初めての『露日辞典がある。

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